鐘の音が響き渡る。

頭上で、幾千もの鐘が、いっせいに鳴らされる。
怒りと、憎しみに、喚きたてる音で。

いや。
実際の「音」ではない。

衝撃で、内臓を揺さぶられ、心臓が鷲掴みにされるほどの苦痛に苛まれているというのに。
通りを行く者たちは、まるで動じても居ない。

まるで音を消したテレビの映像のように、無表情に、または笑いさざめき、いつものように通りを歩いている。

ただ。

何人かは、彼と同じように、殴られてでもいるかのように顔をゆがめ、よろめき、中には冷たく雨に濡れた地面に蹲るものも居る。
鳴り渡り続ける鐘。
吐き気を伴う苦痛に目の前がかすみ始めた。

ぐい、と腕を取られ、いつの間にか歩道ギリギリまで寄ってきていた車の中に、有無を言わさず放り込まれる。
ドアが閉まった瞬間、息をする空気にまで満ちていた苦痛が、すっぱりと消え、その衝撃に意識が遠ざかった。

「気絶したか、エース」
もがくように息を吸い込み
「・・・んなこと、本人に、聞くな」
ともすれば、そのまま気絶したいところだったが、エースは、かろうじて踏ん張った。

新しさバリバリの高級革の匂いが鼻に付く車の後部座席。
嫌味がましいストレッチリムジンの後部座席一杯を占領しているのが、サー・クロコダイルであり、自分を彼の足元に無造作に放り投げて、クロコダイルと向き合うように座っているのが、マルコだと気付いたからだった。
「ふん」
頷いたのか、無視したのか。
ともかく人を苛立たせると同時に、究極まで怯えさせる特技を発揮して、ワニがそっぽを向いた。
「吐かせるな、マルコ」
「言うと、かえって吐くよい」
そう言いながら、水の入ったグラスを差し出す。
入っているのが水ですみません、と言いたくなるような細工だ。
エースは、そんなものやら、この車の同乗者に恐縮するような神経は持ち合わせていなかった。
『その態度は、何だ』とグラスをワニの口にねじ込む楽しい想像をしないでもなかったが、とりあえずは水の恩恵に預かる。
ちょっとむせたら、もてなし側の嫌な顔ったらない。
「吐かせるなと言っただろう」
「まだ吐いてないよい」
「だから、今後も其れをさせるなと、言っている。この車は、朝、買ったばかりだ」
「狩りのたびに車を買い替えるのも、どんなもんだよい」
「拾ってやって、その礼に、みんな吐きやがるから、始末に負えん」
「だからって、一度や二度で腐るもんじゃねェだろうよい」
気持ちの悪い会話をしながら、2人が飲んでいるのは、芳香漂う酒らしい。
真ん中の床に座り込んだエースが、ちょっと青筋たった。
「吐く、吐く、言うな。本当にやるぞ」
「ふん」
クロコダイルは、相変わらずだ。
どうも、このワニは、人の反応を学ぶところまでいっていないらしい。
そういえば、マルコ以外と会話しているところを見たことは無かった。
気分はどうだ、と、そのワニと友好関係を結ぶ傑物、マルコが尋ねる。
「もう、平気だ」
ありがとう、と礼儀正しく頭を下げる。
野放図だが、とても厳しく礼儀を叩き込まれた節のある青年を、失礼にも床に座らせたまま、車は静かに通りを走る。

「あれは・・・」

あの鐘の音は、なんだったんだ、と尋ねようとして、エースは外に眼をやった。
瞬間、凍りつく。

通りを、秩序正しく進む漆黒の車両の列。

角ごとに止まると、ばらばらと制服の男達が飛び降りてきて、路上や建物の中から、何人かを引き立てていく。
あっと言う間に車が走り去った後は、人々が呆然とした顔に、恐怖を張り付かせて立ち尽くしていた。

それ以外は。
まるで、何も起きなかったようだ。何一つ。

「あれは」

からからに乾いた喉から、わずかな声が絞り出される。

この車に拾い上げられなかったら。
彼も、ああして路上から拉致されていただろう。

「あれは、なんだよ!!?」

「ミュータント狩りだ」

あっさりと、謎の2人の声がハモった。
あの周波数は、ミュータントをあぶりだす為のものだ、と。
一般の、能力の無いものには、聞こえることも、感じることも無い。
野犬かよ、とエース。
「お前には、どんな音に聞こえた」
「どんなって。鐘だろう」
「じゃあ、自然系か」
どのくらいの大きさで響いていたか、と続けて尋ねられて、どうにも話が頭の中で噛み合わないことに、やっと気付いた。

「一体、何の話をしているんだ」

くわえた葉巻の横から、「けっ」と空気で蔑む高度な技を見せたのは、当然、クロコダイル。
「分からん振りはやめろ。時間の無駄だ」
「いや、ちょっと」と、そこで調整役マルコが割って入る。
「だから、こういう海楼石を使った特別仕様の密室状態にいるか、自分の能力を封じるかしないと、あの攻撃からは逃れられないんだよい」
「だから、なんで!!!?」
こいつは、バカか、と額に大書きして、クロコダイルは寝た振りに入った。
「お前は、ミュータントで、俺達も、そうだから」
ゆっくりと、子供に言い聞かせる口調のマルコに、エースの顎が落ちた。
「ミュータント?」
「そう、突然変異」
「俺が?」
「お前が」
「おっさんが?」
「誰のことかな」
今まで温和な良い人だ、と思っていたマルコに、『悪い子は、この口かなあっ』と、唇をひねられて、エースは涙目で謝った。

「でも、なんで?」

突然変異の能力を持つ人間のことは、これまでも闇に葬られる話題だった。
囁かれる。
密かに。
いつまでも寝ない子供をおどかす、親の作り話。
『良い子にしていないと、悪魔がお前をミュータントにしてしまうわよ』
『知らない人から、変な木の実を貰って食べては、いけないぞ』と。

そして。

ミュータントが隣人にいたりしたら。
まるごと一つの村が焼かれたこともある、と聞いた。

独裁者ロジャーと、彼の秘密警察は、行く手に立ちはだかりそうな因子を、決して見逃さない。

だから、彼、エースも。
これまでずっと、誰とも接することを許されなかった。

それを、この車の男達は、あっさりと自分達をミュータントだと言い放った。
こんな車を仕立て、エース以外にも、何人ものミュータントを救ってきた、らしい。

「降ろしてくれよ」
「だめだよい」

にっこりとマルコは笑った。

「今、お前をここで降ろしたら、何をするか、もろわかりだからな」
絶句するエースに、なおも鮮やかな笑顔で、

「秘密警察の車を追って突っ走って、どんな状態だか分からないところに突入して、相手の戦力も分からず、闇雲にあばれて、何をされているか、どれほど弱っているか分からない、戦力として未知数のミュータント連中を助け出して、どこに隠れたら良いかの見当も無く逃げてようってんだろうがよい」

「ばかめ」
熟睡しているかと思ったクロコダイルが、止めを刺した。

「畜生・・・」

「『俺だけ助かって』とか、つまらん自己陶酔は、やめろ」
別人のように凍てついた瞳で、マルコがエースを見据えた。

「ヒーローを気取るのは、簡単だ」

「だが、ヒーローとしての責任を果たすのはな」

ふ、と、寂しげな笑みが戻る。

「楽じゃ、ないんだよい」


まずは状況把握のためにアジトに戻る、とのクロコダイルの指示をどうやって聞いたか、車がぐるりと方向を変えて走り出した。


窓越しに、鐘の音が聞こえる。
柔らかに、幾つもの鐘がゆっくりと鳴らされている。

「これは?」
「狩りの音じゃない。今日は、どっかの国の神様の誕生日を知らせる日らしいよい」

独裁者の死後、外国から色々な者達が訪れ、様々な風習を披露し始めた。
その一環らしい。

「誕生日を知らせるための日? じゃあ、誕生日じゃないんだ」
「前日だな」
「なんで、そんなことすんの?忘れずに明日は祝えってこと?」
「だろうな」
「かわってんな」
「慎重な神様なんだよい」
「いままで誕生日を忘れられてたのかもな」
「普通、神様に誕生日なんか、ないだろ?」
「俺には、ある」

きっぱり言い放つクロコダイルに、エースとマルコの交わした視線は、同じ事を語っていた。



雨が、雪に変わる。


時の流れが、かわる。

そして、人々の行方を決める風向きも、変わろうとしていた。




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