10月5日。
この日が訪れる事を思い、エースが頭を悩ませ始めたのは、9月の初め。ちょうど白鯨は夏の海域を抜けきれず、汗ばむような気候の中を泳いでいた。
ひとり自分のベッドで枕を抱えて物思いに耽るような、そんなしおらしい悩み方も出来ない訳ではないけれど、その形で居ると、ふうと一つ息を吐いたが最後、タオルケットに潜む魔に絡めとられてしまう。そうして気がついた時、堕ちる間際に思いついていたような気のする、素晴らしかったかも知れない案を惜しむところから、一日が始まる。
そんな実りの無い朝迎える事数日、どうすりゃいいと思う?そう言って子犬のような瞳で、エースはサッチのもとを訪れるようになった。
初めは面白がり、あれはこれは提案したサッチだったけれど、あまりに子供向けすぎるか、或はあまりに大人向けすぎるそれらをエースは一つも受け取らなかった。
おれは真剣なんだ!そんな叫びと共に憤慨し火の玉になるエースから部屋を守ることも、エースが落ち着いていられるように至極真面目に相談に乗る事も、どちらにせよとても骨が折れたので、サッチもまた、悪友へのプレゼントを思案し始めた。どんなにハイセンスに、あの仏頂面をより苛つかせてやろうか。

散々サッチを消耗させてからエースは、随分と懐かしく感じる頃の、少ない経験を振り返る。
弟の場合。数日前に本人に問う事が出来た。聞かれた事なんてまともに覚えちゃいないし、それを差し出せば、なんの日かなんて事には構わずに新鮮に正直に大袈裟に喜んだ。ちなみに、答えは「肉!」であると決まりきっていて、本当は問う意味もなかった。
ルフィ、お前って奴はなんて馬鹿で可愛いんだ。
思い出に浸り、思い切り破顔していたエースは、大分長い事そうしていて、あまりにも参考にならない事にやっと気付くと頭を抱えた。
けれどこの際、聞いてみる、というのは手かもしれない。

思えば速実行、のエースなので、彼は直ぐにマルコを訪ねた。
けれど今思えばあのタイミングは不運だった。当たり前のようにノック無しにドアを開け放ったのに、それを咎められる筈の声が聞こえず、姿も見えず、エースは首を捻った。
勝手にマルコのベッドでゴロゴロしながら待ちぼうける時間は随分と長く、その間に「聞いてみよう」という思惑は、「聞き出す!」という決意へとすっかり変貌を遂げていた。だから、よりによって不寝番から戻ったマルコを襲ったエースのしつこさは、丁寧に甲板に塗り込めたタールのようだった。
正直なところマルコはそんな彼も、可愛いと思う。それでも、その時ばかりは静寂と、平穏を求めた。
無難に何か、酒だ本だ、と答えれば満足するだろうか。けれどそうすればすぐにでも、ストライカーで飛び出して行くか、その許可を求めるだろう。事実上の指揮官である1番隊長として、2番隊の隊長をそんな勝手に奔らせる訳にも行かない。それも、本当はそんなに欲しくないもののために。
大切だと、思える物はもう持っている。
しかし、お前が居れば他には、なんて口走るには十年遅く、十年早い。
それに、この火の玉小僧がそれで納得するとも思えない。
明らかなのは、

「聞かねェと、分からねェ事かい」

プライドに触れて、聞けなくするのが、最も簡単だという事。
口を噤んだエースの表情に、全く胸が痛まない訳ではなかったけれど、フォローの仕方を思いついてしまう悪い大人はそのままベッドへ潜り込み、ほら、と手を差し伸べた。


そして、
その日がやって来る。


***


炎の翼は、ごうごうと音を立てる風に吹き消される気配もなく羽撃いて、抜けるような空を滑る。
仏頂面の鳥は、実はなかなかに機嫌が良くて、そして少しばかり急いでいた。

こんな日に悪いな、と送り出した温かい声に、関係ないと笑って飛び発ったのは昨日の今頃。
飲みたい食いたいと素直な兄弟達が、律儀に自分の帰りを待っている筈はないから、本人不在の前祝いに昨夜の宴は盛り上がったのだろう。
そして程なく、既に出来上がっていたり、二日酔いに真っ青になっていたり、そんな奴らが、臆面も無く「待っていたぞ」と騒ぐところまで、容易にマルコの目に浮かぶ。
それから、きっとその中央で、最も眩しく笑うだろう雀斑の顔。

どこまでも仏頂面な鳥は、また少しスピードを上げて、やがて、
遠く小さく見えて尚、後に伸びる白い軌跡が力強さを語る、偉大な鯨を捉える。


「ッ…まだ見えねェーーーーーーー?」
「お、おれの勝ちィ」
「だァー!お前、2分くれェ耐えろよな」

見張り台を見上げたエースの大声は、2時間ほど前から次第に頻度を上げている。
本当は、自分が登っていて待ちたいというのに、次に叫ぶのは何分後か当てる、というゲームで賭け始めた兄に阻まれている。
そんな事だから、最も自分を拘束している兄に負けさせてやりたいと思うのに、つい気の儘に叫んでしまって、すると何故か、そいつ…サッチが高確率で勝ちを攫っていくのだ。

「ありがとよ、エース。次は3分で頼むぜ」
「うるせェ」
「その調子じゃ、何ヤるか決まったみてェだな?」
「…おう」
「よしよし。フォローは任せな」
「ほんとか?」
「おうよ、人払いくれェ」
「じゃ、助けてくれよな!」
「あァ?…エース、お前一体どんなプレイ……あーぁ。」

次の上陸での遊び賃を心躍る程に儲けたサッチはそろそろ退き時と踏み、これがラストゲームと最も大きくベットして、タイミングを操るべくエースの肩に腕を回した。ちなみにこれは、反則行為ではない。エースが声を挙げたくなる衝動は、基本的に会話の流れだとかいうものに左右されずにやってきて大体唐突で、エース本人の意思ともあまり関わりがないので操るのは至難の技なのだ。
それでも操る自信のあったサッチは言葉の途中で、あからさまに自分から興味を無くしたエースの表情から背後の光景を理解し、負けを悟って肩を竦める。
そして、見張り台に居た兄と、同時にエースが叫ぶ。

「「マルコだ!!!!」」

どよりと、広まったざわめきが西の空に集まり、次の瞬間、爆発的に歓声が上がる。
「やっと主役のおでましだ!」
「マルコ隊長ー!おめでとうございます!」
「待ってたぜェ!」
それぞれに意味を成す無数の言葉達は分厚く分厚く重なる。
それは、未だ上空のマルコにも届く鯨の咆哮だ。

「おーおー来やがったな!ったく、あと3分待ってくれりゃあな………で、ナニしようってんだよ?…お、エース?」
一声加わっただけで満足したサッチは、それよりも下世話な事が気にかかって末弟の方を振向いたけれど、もうそこにエースは居なかった。

青い炎の鳥は、ぐるりと大きく旋回しながら高度を下げる。
吠え続ける鯨の背中へ、舞い降りるさなかに炎が集束し、人の姿のマルコが降り立つ。
そこで鯨は、もうひと吠え。
せーので息を合わせるなんて芸当は出来ない荒くれ達の、全く綺麗には混ざらない個々の言葉が、今度はそれなりに聞き取れた。
さあ飲め、お帰り、祝ってやるぜ、誕生日おめでとう。
人の姿になったマルコは、ほぼ道すがらに予想したままの光景に表情が緩むのを自覚して、かろうじて、呆れたような笑顔に変えた。
けれど、1つ、大きな物が足りない。
着地の為に選んだスペースだが、酒瓶や骨つき肉を握り締めた兄弟が距離を詰めて来ていて、間もなく埋め尽くされそうだ。これに呑まれると、益々もって探し難くなるだろうと、鋭く意識を巡らせた、瞬間だった。

「マルコォーー!!!」

負けじと張り上げられた大声に、未だ最高潮だった筈の歓声が俄に落ち着く。
誰より初めに声の主を見つけたのは勿論、大声が指した名前の本人で、
そう言えば一番分かり易く彼の帰りを心待ちにしていた若者が居たな、と思い出した周囲がそれに続いた。
エースは何故だか、マルコを中心に集まりつつあった円の最も端から、更に外れた船縁にギリギリの所に立っていて、マルコを不敵に睨みつけている。
そして。

「マルコ、…受け取れ!!」

マルコだけを見つめて叫ぶと、ダンッ、と立っていた床板に弾けるような衝撃を残し、エースは走り出した。
腕を広げて駆け寄る姿を見て、標的であるマルコ以外の兄弟達は控えめに退き、道を空ける。
標的。そう、マルコの事を、標的だと、誰もが感じた。それは攻撃目標を指す言葉な筈で、実際エースは、とてもじゃないが皆を温かで微笑ましい抱擁を見守るような気分にはさせてくれない。あれは、突進だ。
瞬く間に距離を詰めるエースが、失速する気配は無い。マルコも動かない。最早周りは、チキンレースを観戦している気分だ。
本来、エースの行く道だけで良い筈だが、マルコを挟んだ反対側にも道が出来た。エースが走る直線上には、もうマルコしか居ない。
マルコまで、あと3歩。エースは身を屈めた。
あと2歩。更に猫か何かのように身体のバネを縮め、伸び上がる準備を。
1歩。エースの踏み出した脚は、マルコの立つ正面から方向を逸れて、地を蹴った。


この、時間にすれば数秒の間に凝縮されたドラマチックな機微を読み取り共有出来た兄弟達は、流石に最も海賊王に近い男の船のクルーである。
そんな彼らは、顎を落とし、目を飛ばして、一斉に驚愕しながら、
全力のラリアットを食らい、そのまま首に引っ掛かった腕にもの凄い勢いで引き摺られる1番隊隊長と、叫びながら諸共に船縁を越え海に落ちて行く2番隊隊長を見送った。

「おめでとおおおおおーーー!!」
「「えええええええええええーー!!!??」」




まるで溶け出すように、自分から力が抜けて行く。
ごぼごぼと、衣服が連れて来たらしい空気の玉が肌を這ったあと薄情に逃げ、沈み行くばかりの自分から遥か遠離る。
視界の端で漂う黒髪は、上で見るより柔らかそうに、ゆらゆらと揺れている。
ただ無力に救助を待つばかりの状況で、マルコは淡々と移る思考に漂った。

なんだって、こんな日に、こんな目に。
苦しさにもがく力すらも奪われる。
着水の寸前にありったけ吸い込んだ空気を洩らさないようにと息を止める力もなくなりそうで、マズいなと思ったら、目の前のエースは阿呆面に口を半開き、えらく弱々しくながら笑っていて、空気を蓄えるなんて事は考えてもいないようだった。

あれだけの数に見守られながら落ちたのだ。おそらく助かる。
でなければ、こんなくたばり方はあんまりだ。
誕生日が、命日か。ふと笑えて、こぽりと小さく空気がまた逃げた。

助けは、まだか。阿呆面越しに、水面を仰ぐ。
今逃げだした空気の玉が、昇る程に煌めいて、ユラユラと光る水面に迎えられる所だった。


蒼い。


そう言えば。
戦闘の最中、熱くなり過ぎたこいつを最前線から引き剥がした事があった。
こっちは頭に来ているというのに、おれの翼に囲まれたこいつはその時も阿呆面で笑い、
海のようだ、そう言った。

もう一度、エースを見ると、黒い瞳はおれを見ていた。
やけに力の無い顔に、嫌な風に胸がざわつく。
間抜けに口なんざ空けているからだ。

苦しいし、だるいし、確実に死にかけているこの状況で、なおこの男を愛しく思うのはどういう訳だろう。
海に嫌われた海賊が二人、海に抱かれて抱き合っている。
なんだか再び、最低に笑えてきて、なんとか含んだままでいた空気を、目の前の阿呆面に与えてやった。



洩れ出て、水面を目指す玉を追う。
けれど閉じて行くこの目は、再び開く事があるだろうか。
ああ、意地でももう一度開けてやる。
死んでたまるか。
最期の情景がほどけていくリーゼントだなんて。


***


誰も予想だにしなかった、2番隊隊長の衝撃的な造反。
そのシーンを目の当たりにした面々が正気を取り戻したのは、沈む二人を見限った空気がぶくぶくと水面を弾けた、後だった。

船縁に近い者が慌てて覗き込んだ時には、既に彼らの場所を示す物は見当たらず甲板に新たな動揺が走り、
あの馬鹿、そう残してまず飛び込んだのは、サッチだった。

能力者は、海に抗えない。
ろくに藻掻くことも出来ないのだろう、泳げない者の事を金槌とはよく言ったものだと、感心すらしてしまう程、彼等は成すすべなく緩やかに海底を目指す。
二人の姿を捉えようと目を凝らしながら潜っていくサッチの耳元に、助けてくれよな、とエースの言葉が蘇り、ああこの事だったのかとあの時に感じた違和感について腑に落ちて、けれど行動の意図はさっぱり分からん!と、思わず荒くしてしまった鼻息に、大切な空気を費やした。
全くもって意味が分からないし、そろそろ水圧で耳や鼻が痛みを訴え始めた。
その上に、さらりと長い飴色の髪が視界を漂って、不機嫌は増すばかりだ。
なんとしても引っ張り上げて、問いたださなくては。
丁度そう思った時、新たに上を目指し浮かんで来た空気とすれ違う。出所は、そう遠くなさそうだ。あと一息と、サッチはまた力強く冷たい海を掻き分けた。



ずぶ濡れの能力者が二人、甲板に転がっている。
頭上に、すっかり解けきった髪をオールバックに後ろに流したサッチがしゃがみ込み、更に周りを、海水だったり汗だったりでびしょびしょの兄弟達が囲んでいた。

「おら。しっかりしろ、この馬鹿野郎」
「…馬鹿は…そっちだけだ」
「元気そーで何より」

マルコだけは先に目を覚まして、けれどまだ気だるげに床に横たわっていて、そんなマルコが珍しいと面白がり、サッチはぺちぺちと彼の頬を叩いた。
そういった行動でよくサッチは遠巻きに危機管理能力を問われているが、煩わしそうな顔を見せたマルコは直ぐに興味を無くしたように視線を逸らしたので、今日サッチがこれ以上の災難に見舞われる事は無さそうだ。
流れた視線の先には、無防備な寝顔。
何を考えているんだ、と、もっともな追究は8割方が罵声で、更に多少の手足も伴って浴びせられたのだが、エースはそのすべてをこの寝顔でもってやり過ごした。
飲み込んでしまった水は先ほどテッポウウオよろしく吐き出させたし、規則正しい寝息も穏やかで、マルコはつい呆れたように笑みを洩らす。

「なァに笑ってんだ」
「…別に」
「お前さ。…コレの考え分かるか」
「…いや…どうだろうな」
「全くよ…、危うく心中だったんだぜ?」
「そりゃあ…熱烈だなァ」

漸く、面倒臭そうに起き上がったマルコの台詞が、まるで自分のようだとサッチは目を丸くする。 それからマルコは、何事もなかったように立ち上がり、隣に横たわるエースを肩に担ぎ、船室へと歩き出した。
取り巻いていた兄弟たちは、くったりと脱力した人間一人を事も無げに拾い上げた仕草としっかりとした足取りに一先ず安心をして、ただそれを見守ってしまったが、少し遅れて慌ててその背を呼びとめる。
マルコ、マルコ隊長、といくつもの声にマルコは僅かに立ち止り、けれどそれだけで、また歩き始める。

「おい、マルコ」
「…騒がせて悪かった。お前らは、宴に戻れよい」

さっきの出来事が何だったのかは誰も分からないが、
少なくともマルコは被害者であると、その場の全員が知っている。
そのマルコに謝られてしまってはもう何も言えずに、
間もなくバタンと、甲板と船室を繋ぐ扉の閉まる音が響く。


解明を逃れた謎は間もなく肴になり、
残された不完全燃焼な思いは、やがて酒に掬われるだろうが、
サッチは肩を竦める。

「結局、人払いもさせるワケだ」


次へ

戻る
topへ